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上杉鷹山公の精神に触れるー終 [上杉鷹山]

 これまで、上杉鷹山公の改革の精神の一端に触れてまいりましたが、米沢藩の改革は、民に犠牲を強いる改革ではなく、支配階級自らの改革に重点があったように思われます。 真の改革とは、弱者である下流、社会の下部構造を改革することではなく、強者である上流、社会の上部構造(支配層)を改革することではないでしょうか? それは、改革する者自ら率先垂範して身を切ることから始まるのです。

 小泉構造改革は、弱者の一般国民に犠牲を強いるだけで、支配層は肥え太るものでありました。 さらに、外国資本の強奪を許すという売国性さえ帯びた改革であったのです。小泉改革は、とても改革と呼べる代物ではない、偽物であったと言えるように思います。

 小泉純一郎氏が首相在任時は、「自己責任論」が強調されました。「自己責任」は、助け合いの精神と相容れないものであります。小泉時代以降、互助の精神の希薄な孤立した社会への傾斜が顕著になったように思います。小泉改革は、社会のセーフティネットを著しく破壊するものでありました。

 天明の大飢饉の時、上杉鷹山公は、「自助」「互助」「扶助」の精神で、ひとりの餓死者も出さずにしのぎきったと伝えられています。助け合い、分かち合いの精神は、困難なときほど真価を発揮するのだと思います。

 未曾有の経済危機にある日本は、「互助」「扶助」の精神が希薄では、未来に明るい展望が開けるようには思われません。これを正すには、日本の為政者が、「為政者は民の父母である」という鷹山公の無私の精神に立ち返ることから始めなければならないように思われます。


(以下郷土のやまがた「上杉鷹山の功績」より引用)

〇民の父母

 受次ぎて国の司の身となれば忘るまじきは民の父母

 鷹山が17歳で第9代米沢藩主となったときの決意を込めた歌である。藩主としての自分の仕事は、父母が子を養うごとく、人民のために尽くすことであるという鷹山の自覚は、徹底したものであった。後に35歳で重定の子治広に家督を譲った時に、次の3カ条を贈った。これは「伝国の辞」と呼ばれ、上杉家代々の家訓となる。

 ・ 国家は、先祖より子孫へ伝え候国家にして、我私すべきものにはこれなく候
 ・ 人民は国家に属したる人民にして、我私すべきものにはこれなく候
 ・ 国家人民の為に立たる君にて、君の為に立たる国家人民にはこれなく候

 藩主とは、国家(=藩)と人民を私有するものではなく、「民の父母」としてつくす使命がある、と鷹山は考えていた。しかし、それは決して民を甘やかすことではない。鷹山は「民の父母」としての根本方針を次の「三助」とした。すなわち、

 ・ 自ら助ける、すなわち「自助」
 ・ 近隣社会が互いに助け合う、「互助」
 ・ 藩政府が手を伸ばす、「扶助」

〇天明の大飢饉をしのいだ扶助・互助

 藩政府による「扶助」は、天明の大飢饉の際に真価を問われた。天明2(1782)年、長雨が春から始まって、冷夏となった。
 翌3年も同じような天候が続いた。米作は平年の2割程度に落ち込んだ。
 鷹山が陣頭指揮をとり、藩政府の動きは素早かった。

 ・ 藩士、領民の区別なく、一日あたり、男、米3合、女2合5勺の割合で支給し、粥として食べさせる。
 ・ 酒、酢、豆腐、菓子など、穀物を原料とする品の製造を禁止。
 ・ 比較的被害の少ない酒田、越後からの米の買い入れ鷹山以下、上杉家の全員も、領民と同様、三度の食事は粥とした。それを見習って、富裕な者たちも、貧しい者を競って助けた。

 全国300藩で、領民の救援をなしうる備蓄のあったのは、わずかに、紀州、水戸、熊本、米沢の4藩だけであった。

 近隣の盛岡藩では人口の2割にあたる7万人、人口の多い仙台藩にいたっては、30万人の餓死者、病死者が出たとされているが、米沢藩では、このような扶助、互助の甲斐あって、餓死は一人も出なかった。それだけでなく、鷹山は苦しい中でも、他藩からの難民に藩民同様の保護を命じている。

 江戸にも、飢えた民が押し寄せたが、幕府の調べでは、米沢藩出身のものは一人もいなかった、という。米沢藩の業績は、幕府にも認められ、「美政である」として3度も表彰を受けている。

〇アジアのアルカデヤ(桃源郷)

 イギリスの女流探検家イザベラ・バードは、明治初年に日本を訪れ、いまだ江戸時代の余韻を残す米沢について、次のような印象記を残している。

 南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉場の赤湯があり、まったくエデンの園である。「鋤で耕したというより、鉛筆で描いたように」美しい。米、綿、とうもろこし、煙草、麻、藍、大豆、抑子、くるみ、水瓜、きゅうり、柿、杏、ザクロを豊富に栽培している。実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカデヤ(桃源郷)である。自力で栄えるこの豊沃な大地は、すべて、それを耕作している人びとの所有するところのものである。・・・美しさ、勤勉、安楽さに満ちた魅惑的な地域である。山に囲まれ、明るく輝く松川に灌漑されている。どこを見渡しても豊かで美しい農村である。

 イザベラ・バードは、この土地がわずか100年前には、住民が困窮のあまり夜逃げをするような所であったことを知っていたかどうか。この桃源郷を作り上げたのは、鷹山の17歳から55年にもおよぶ改革が火をつけた武士・領民たちの自助・互助努力だったのである。

 美しく豊かなのは土地だけではない。それを作り出した人々の精神も豊かで美しい。病人や障害者は近隣で面倒を見、老人を敬い、飢饉では富裕なものが競って、貧しい者を助ける。鷹山の自助、互助、扶助の「三助」の方針が、物質的にも精神的にも美しく豊かな共同体を作り出したのである。

(引用終わり) 

   郷土のやまがた 「上杉鷹山の功績」

 都合により、拙ブログはしばらくの間休止とさせていただきます。
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上杉鷹山公の精神に触れるー4 [上杉鷹山]

(引用の続き開始)

五什組合

 鷹山の愛民の政治は以上にとどまらず、次々と多方面に展開された。その一つが「五什組合」の制度である。

 これは農民相互の扶助組織であり、近隣五軒を五人組として相互に助け合い、村全体が共同体として苦楽をともにするものであった。鷹山は「五什組合」について次のように定めた。

1.五人組は常にむつまじく交りて苦楽をともにすること、家族の如くなるべし。

1.十人組は時々親しく出入りして家事を聞くこと、親類の如くなるべし。

1.一村は互いに助け合い、互いに救い合いたのもしきこと、朋友の如くなるべし。

1.組合村は患難にあって助け、隣村よしみ甲斐あるべし。

 そして、老いて子なき者、幼にして父母なき者、夫婦のいずれかを失った者、病傷者で生活できない者、死者を出しても葬式を出せない貧しい者、火災にあった者等々、全ての苦しむ者に対し、五人組、十人組、一村が相互扶助することを定めたのであった。これまた鷹山の「民の父母」たる愛情から発した農村政策であり、決して農民への支配と統制を目的とする制度ではなかった。

 それ故に内村鑑三『代表的日本人』の中でこの五什組合のことを「多分の官僚主義は以上のどこにも存しない。それのみならず我々はかつて鷹山の米沢領以外、地球の他のいかなる部分に於ても、これに類したものの公布され、それの実行に移されたるを見たことなしと言明する」と述べているのである。

福祉政策の実践

 ほかにも鷹山は、老人や病人、妊婦などの弱者を重視する福祉政策の充実をはかり、それを実現させた。

 医者が余りにも少ない時代で、病気になっても医者にかかる事ができない者が多く、鷹山は藩内各地に官選の医師をおき、彼らに宅地を与えるとともに優遇した。これによりどれほど多くの人が助けられたかは言うまでもない。

 江戸時代にあってこの当時、悲しくも堕胎いわゆる間引は日常化していた。その要因は、結局子供を生んでも育てられない生活の貧しさにあった。鷹山は熟慮と協議を重ねた結果、種々やりくりし六千両の育児資金をつくり出し、子供を育てられない窮民にこれを与えることにした。こうして前後約三十年の努力を傾注した結果、遂に米沢藩において堕胎間引の根絶に成功するのである。実に容易ならざる事業であったが、鷹山の「誠と愛と知」を傾けた尽力がこれを成就せしめたのである。

 さらに当時、生活苦のため働けなくなった老人は、「口減らし」のためしばしば野山に捨てられた。鷹山はこの忌まわしき悪習の絶滅のため次なる方策を講じた。それは九十歳以上のものはなくなるまで食べてゆける今でいう年金を与え、七十歳以上のものは村で責任をもっていたわり世話することを決めた。それのみならず鷹山は、老人を大切にいたわる孝子を褒賞するとともに、自ら敬老を実践するのである。

 こうして鷹山自ら誠意の限りをつくした敬老養老の実践は、堕胎とともにこの悪習をも根絶せしめることに成功したのである。

 鷹山の半世紀にわたる粒々辛苦の尽力は遂に米沢藩を変貌せしめ、この地上の歴史の中に最も価値ある理想の国をつくり上げることに成功したのである。

 米沢藩再建は数十年を要した長く困難な道程であった。誰もが再建を不可能とした中にあって、鷹山は不退転の覚悟のもとに死力を尽くした。この努力の根底にあったものこそ、「民の父母」たる為政者としての深い自覚と責任であり、人々への限りない愛情と真心であった。鷹山の行った政治こそは、真に仁政の極致といってよかった。

 我々はここに為政者のあるべきすがたを見るのである。政治と政治家にとって最も大事なことを、五十有余年の不撓不屈の実践によって指し示した上杉鷹山こそは、わが国の生んだ古今不世出の哲人政治家であった。鷹山がかくの如き政治を達成し得たのは彼が何より人間として立派であったからにほかならず、鷹山のこの神のごとき人格は唯々生涯にわたる正しき人間の道を践まんとする、たゆまざる学問と修養によって生み出されたものである。

 文政五年、鷹山が七十二歳でなくなった時、藩内あげてその父母を失うがごとく、その悲嘆は言語に絶した。埋葬の当日、数万の人々があるいは老人を伴い、あるいは幼児をたずさえ、沿道に平伏してひつぎを拝み、欷歔(ききょ:すすり泣く)嗚咽、号泣の声は山野に満ちた。

(以上引用終わり)

 五什組合というのは、今の言葉で言えば、生活セーフティネットと言えるものだと思います。お互いが助け合う、互助の精神が徹底しています。全てを自己責任に帰するなどと対極の世界、ホームレスなどと無縁の世界であります。当時の米沢藩は、愛に満ちた理想郷であったのだと思います。

 これは夢、幻ではなく現実にあったことです。現代人も、米沢藩を手本にして、理想郷をめざなくてはいけないのではないかと思うのです。

   郷土のやまがた 「上杉鷹山の生涯」
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上杉鷹山公の精神に触れるー3 [上杉鷹山]

(以下引用の続き開始)

農民への愛情

 農民の生活をよくする為には、日頃農民に接する藩役人のあり方を改めることが根本であった。というのもこれら役人の主な任務は農民から確実に年貢を取り立てることであり、彼らは農民に対し生殺与奪の権を握り、従来とかく百姓泣かせの苛斂誅求(かれんちゅうきゅう:きびしいとりたて)を行うものが少なくなかったからである。

 そこで鷹山はこの農民を支配する役人の制度を改め、これまでの世襲的な代官制度を撤廃し、すぐれた人物を選びこれにあてることにした。そして鷹山はこれら役人の心構えについての文章を与え、彼らを懇々と教え論した。その文章を要約すると、「役人は母の赤子に対する心をもって民にのぞめ。この真心、誠のあるところ愛を生じ、愛は知を生ずる」ということである。この言葉は、鷹山の肺肝よりほとばしり出たものである。鷹山の心にあるもの、それはひたすら民を思い民を愛する至情であった。鷹山のこの民に対する姿勢こそ、今日においても少しも変わることのない政治の要諦でなければならない。

農民の教師-郷村教導出役

 鷹山は藩内十二の地方に、前述の基本精神のもとに、「郷村教導出役」という役人をおいた。鷹山が彼らに与えた任務は次の通りである。

1.天道を敬うことを教える事

1.父母への孝行を教える事

1.家内睦まじく親類親しむことを教える事

1.頼りなき者をいたわって渡世させる事

1.民の害を除き民の潤益をとり行う事

1.上に立ち百姓を取扱う諸役人の邪正に注意する事

1.往来の病人をいたわる事

 郷村教導出役 の任務は一つに農民の生活を守ることであり、いま一つは農民に人の道を教え人倫を正しく践むましめることであった。

 鷹山の抜擢をうけた十二人はいずれも衆にすぐれた人物で、彼らはよく鷹山の意を体し競い合って職務に精励した。鷹山はしばしばこの十二人を呼び出しては、直接彼らと語り合い農政の改善に全力を尽くしたのである。こうして米沢藩農政は着々とその成果をあげ、農民の生活は向上していった。かくまでして農政に心を傾け尽くした君主は、ほとんど稀であったのである。

 この鷹山の農政を見て人々は何を感ずるであろうか。鷹山は政治と道徳あるいは教化をわけていないのである。鷹山は政治と道徳を不可分と信じたのだ。それ故に農民の生活安定並びに向上のみならず、彼らに人間としての道を行わしめることに最も意を注いだのである。鷹山は役人たちに、為政者たる役割と教師たる役割を二つながら備わることを求めたのであった。

 ここに我々は本当の政治と政治家のあり方を見ることができる。政治はまず人々の生活を守ることが大前提であり、これができなければ失格である。鷹山はこのことにあらゆる叡知と努力を傾け遂にそれを達成した。しかし人々の生活を守るだけが政治の全てではない。人間としてよりよく立派に生きることこそ真に大切なことである。本当の政治はやはりこの課題を無視して通れない。鷹山はこの政治の最終目標を忘れなかったのである。このことを考えてみても鷹山が為政者としていかにすぐれていたかがわかるのである。
(続く…)

 「為政者は、民の父母であるという心構えを第一とせよ」、春日神社に奉納した誓詞であります。鷹山公の心にあったものは、ひたすら民を思い、民を愛する至情でありました。そこには自分というものがありません。鷹山公の政治を一言で表現すれば、「愛の政治」であったと言えるように思います。

 また、鷹山公は、代官の世襲制度を廃止して、新たに登用した役人に心構えを諭しています
 「役人は母の赤子に対する心をもって民にのぞめ。この真心、誠のあるところ愛を生じ、愛は知を生ずる」。官僚の人たちには、この言葉の意味するところをかみしめていただきたいものだと思います。

   郷土のやまがた 「上杉鷹山の生涯」
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上杉鷹山公の精神に触れるー2 [上杉鷹山]

(以下引用の続き開始)

 1773年、須田をはじめとする譜代の老臣7名が、鷹山に対して反旗をひるがえした。これまで鷹山を中心に改革派が推し進めてきた政策をすべて否定するという訴えを起こしたのである。「七家訴状」とよばれる四十五力条からなる訴状には、鷹山に対する批判や、 鷹山側近に対する不満、新政策への非難がつづられていた。

 鷹山は襲封以来はじめて、重臣たちの反乱にあうという重大な局面に立たされたのである。しかし、鷹山は果断であった。審査したのち、訴状の出された三日後には7人の重臣すべてを、切腹あるいは閉門、減知するなど処断した。こののち、改革政策は、活発な展開を見ることとなる。家中総出で労役に従事し、生産向上の実を上げるのである。

 安永元年から鷹山は「籍田の礼」をはじめた。中国の故事にならったもので、奉行以下諸役人全員が参列し、鷹山がまず鍬を打ち以下全員が鍬打ちをつづけて、最後に神酒を頂戴するという儀式であった。この家臣の労働奉仕を振起する行事は、鷹山在国の年には必ず行われました。翌安永2年から3年にかけて、新田の開発、河川の改修、橋の掛け替え、籾倉の建設など家中あげての労役奉仕による大規模な開発事業が行われた。武士たちが農民と共に賊役とされた労働に従事するなど、これまでは考えられないことであった。

 鷹山はまた、郷村をよく巡覧し、農業生産の実を上げた代表者に褒賞を与えた。そして、 代官の世襲を廃止し、優秀な人材を代官に登用したのである。

 また、鷹山は産業開発にも力を入れた。これまで米沢藩の伝統的産業は、青苧(あおそ)漆、蝋であり、藩財政の重要な部分を占めていた。しかしこれらの国産物はいずれも衰退していたのである。

 そこで安永4年、竹俣当綱によって発表された漆、桑、楮(こうぞ)各百万本の植樹計画は、財源の回復と山間部の農村復興を目指したものでした。縮み織りの染料となる藍の栽培をはじめたのも安永年間のことである。同時に藩営の縮織業を開始した。

 また鷹山が学問を重視したことはよく知られている。彼が興譲館という学校を築いたのは、安永5年のこと。彼の師匠である細井平洲を招き、身分の上下、年に関わらずみんなを招いた。

 幸姫は天明2年(1782年)30歳まで生きて亡くなった。その間、鷹山は江戸屋敷には一人の側室も置かなかった。鷹山の側室は、国元の米沢に置いたお豊の方ただ一人であった。このお豊の方は、上杉綱憲の第六子式部勝延の娘で、重定の従兄弟にあたる。鷹山より10歳年上であったが、お豊の方は教養も高く、鷹山をよく理解した賢婦人であった。彼女は鷹山の男子を二人もうけたが、いずれも早逝している。しかし鷹山との間はうまくいき、鷹山を支えつづけて81歳まで生きた。

 天明5年(1785年)鷹山は35歳の若さで隠退した。跡を継いだのは重定の世子治広。養父重定はいまだ健在であり、その実子に藩主の座を譲るというのは、いわば既定の路線であり、鷹山の忠孝心の表われでもあった。隠退にあたって鷹山が治広に与えた有名な「伝国之辞」は、鷹山の政治理念を象徴する 名言として知られている。

 
一、国家は先祖より子孫へ伝候国家にして、我私すべき物には無之候。 

一、人民は国家に属したる人民にして、我私すべき物には無之候。

一、国家人民の為に立たる君にして、君の為に立たる国家人民には無之候。

 
 隠居した鷹山は城内三の丸に餐霞館(さんかかん)と名づけた隠殿を建て、そこで暮らした。生活はこれまで以上に質素を旨とし、仕切料も重定の三分の一以下。しかしまったく隠退してしまったわけではなく、10代藩主治広をバックアップし、さらに11代斉定をも後見して、米沢藩の経営を実質リードし続けるのである。文政5年1822年2月、病に倒れた鷹山は、一カ月の病床ののち、3月12日の朝、 静かに息を引き取った。享年72歳である。
(続く…)

 鷹山公は伝国の辞において、為政者は国、民に尽くさなければならないのであって、我欲、私心があってはならないと諭しているように思います。公より私を優先している今の与党政治家の人たちには、耳の痛い言葉ではないでしょうか!

   郷土のやまがた 「上杉鷹山の生涯」
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上杉鷹山公の精神に触れる-1 [上杉鷹山]

 政権維持に汲々としている自公与党政治家の人たちを眺めていると、絶望的な気分に陥ってくるのではないでしょうか? こうした心境のときには、昔の本物の政治家の、精神の一端に触れてみることで、少しは救われた気分になれるのではないでしょうか?

 そこで、江戸時代に、破滅的な財政状況にあった米沢藩を立て直した、名君上杉鷹山公の生涯を振り返りながら、その精神に触れてみたいと思います。私には、鷹山公に関しての詳しい知識がありませんので、 「郷土のやまがた」さんのホームページにある「上杉鷹山の生涯」から引用させていただくことといたします。長文のため何回かに分けて掲載していきます。

(以下引用開始)


  『上杉鷹山 の生涯』


上杉鷹山(うえすぎようざん)は、1751年7月20日、日向高鍋藩の江戸藩邸で、藩主秋月種美(あきづきたねよし)の次男として生まれた。歴史の教科書にも載らなかったこの偉大なる方は、数ある大名のなかで名君中の名君といわれた。養子として上杉家を継ぎ、若くして藩政改革に取り組み、藩の窮乏を救うことに成功したからである。

  彼の母は、筑前秋月城主の娘で春姫。春姫の母は、米沢藩4代藩主上杉綱憲の娘、豊姫、瑞耀院(ずいよういん)で、鷹山にとって上杉家は、祖母が現米沢藩主上杉重定と従姉弟にあたるという、遠い親戚関係にあった。

 江戸時代の各藩、すなわち大名家は、それぞれが小国家で、その経営は各藩独自の方針に基づいて堆進されていた。よって経営者たる藩主の資質・力量によって、その経営内容は大きく左右された。もっとも、どの藩も貧しく徳川幕府でさえ、財政危機の連続であった。財政の基盤は米を中心とした農業生産物であり、その年の天侯に左右されることが多く、各藩の経済はきわめて不安定であった。江戸時代を通じて、幕府以下どの大名家も、慢性的な不況にあえいでいたが、固定化された体制では、殆ど変わりようがなく、悪化した経営を建て直すことはまず不可能に近かった。

 そうした中で、上杉鷹山は、行政改革に成功し財政危機を乗り越えて経営改革を成し遂げたのである。

 鷹山は幼名を松三郎といい、直松とも呼ばれた。幼少時より頭がよいと評判の子供であったが、江戸時代の体制下にあっては、どんなに優秀であっても、次男が長男をさしおいて家を継ぐということはなかった。

 ところが、9歳の時、鷹山は祖母にあたる瑞耀院(ずいよういん)の推薦によって、出羽米沢藩十五万石上杉重定の養子に内定したのである。それは、重定の正室に男子がなかったからであった。鷹山は、重定の正室が生んだ女子、幸姫(ゆきひめ)と将来結婚することを前提に、宝暦10年、正式に上杉家の養子となった。日向高鍋藩二万七千石の部屋住(へやずみ)の身が、十五万石の大名家を継ぐ立場となったのである。まさに逆玉!であるがこれは、単に彼に幸運があったからではなく、優秀な子であったという評判があったからこそだったのである。

 ところが、鷹山はこの幸姫との間に、夫婦としての関係を生涯持ちえなかったのである。幸姫は、心身ともに発育が遅れており、10歳にも満たぬ幼女同然だった。しかし鷹山はこの幸姫を、いつくしみ続けるのである。鷹山が、幸姫を相手に、ひな飾りや玩具遊びをする姿を見て、お付きの女中たちは涙を流したといわれている。

 鷹山は養子入りにあたり、秋月家の老臣三好重道から、懇切な訓戒書を与えられた。それには、忠孝・学問・武芸をはじめ、養家の作法に絶対違犯することがないよう生涯努力し、決して恥辱を残さぬよう、詳しく述べたものであった。鷹山は生涯これを秘蔵し、その体現に努力を怠らなかった。

 1766年、数え年16歳になった鷹山は、将軍徳川家治の前で元服し、将軍の一字をもらって治憲(はるのり)と改名した。鷹山と号するのは、ずっと後に養父の重定が死去してからである。そして翌、明和4年、重定が隠退して、鷹山は上杉家の家督を継ぎ、第9代米沢藩主となった。この時少年鷹山は17歳。厳しい状況で迎えた藩主の座であった。というのも、米沢藩は未曾有といっていいほど、藩財政が極端に窮乏し、家臣も領民も貧困にあえいでいたからである。更に悪いことは重なり、何度かの大凶作が追い打ちをかけていた。

 藩主になった直後の鷹山の決意を、二つの誓詞が物語っている。一つは春日社に納めたもので、自分自身を律したもので、文学・武術を怠らぬこと、民の父母である心構えを第一にすること、質素倹約を忘れぬこと、言行がととのわなかったり賞罰に不正があったりしないようにすること等を神前に誓ったものである。もう一つは上杉家歴代が尊崇した鏡守社白子神社に奉納した、「連年国家が衰微し人々が困窮しているが、大倹によって必ず中興したい、その決意を怠るようなことがあれば神罰を蒙ってもよい」という意の誓文である。鷹山はこれらの誓詞を密かに奉納したので、領民は誰もこのことを知らなかった。誓詞が発見されて公表されたのは、春日社のものが1865年、白子神社のものは1891年になってからのことである。

 明和4年9月、鷹山は大倹執行の命令を発する。短期間に大幅な収入増が見込めぬ以上、できるだけ出費を切りつめなければならないからであった。しかし、低禄の家臣や領民の貧困をよそに、永年特権の上にあぐらをかいてきた藩上層部は、当然若き新藩主の方針に不満たらたらであった。しかし鷹山は、自らが率先して倹約することで、大倹を断行した。

 藩主の生活費のすべてである江戸における年間仕切料は、これまで千五百両であったが、これを二百九両余まで圧縮した。実に七分の一という大幅節減である。日常の食事は一汁一菜、衣服は綿衣とし、五十人もいた奥女中は九人に減らした。

 明和6年10月、鷹山は藩主となって初めて米沢に入部した。藩主初のお国入りである。このとき鷹山は、側近が止めるのもきかず、米沢のかなり手前から馬に乗り、風雪の中を雄々しく入城したといわれている。

 また、11月に行われた恒例の初入部の祝儀の宴では、大倹の際であるということで従来のご馳走料理を廃し、赤飯と酒だけで催した。その席で鷹山は、最下級の足軽格の軽輩にまで親しく言葉をかけたといわれている。

 こうした若き新藩主の旧習を破る行動は、上級家臣や老臣たちの反発を招いた。彼らは、ことあるごとに鷹山の新政策に横槍を入れることになる。家臣の須田などは、大倹令に従わず、乗馬の際には縮緬羽織を着用するというように、平然と鷹山への当て付けを行ったといわれている。 しかし一方で、新藩主の革新の気風を大いに歓迎し、旧弊を打破して新しい米沢藩をつくろうという側近も少なくなかったのである。鷹山は竹俣当綱(まさつな)や莅戸善政(のぞきよしまさ)らの改革派の強力なブレーンを得て、藩政改革を推し進めていくのである。
(続く…)
 
   郷土のやまがた 「上杉鷹山の生涯」
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